第十夜 パンプス

 風はまだ冷たかったが、そこには春の気配が満ちていた。空は春独特の、あの淡いブルーに晴れ上がっていた。空気は澄み、遠く比良の山並がつづいているのが見渡せた。早春の、何か神聖な清澄さをたたえた空気は、やがて春の野に満ちるであろう生命の、胎動のようなものを秘めていた。

 島中は就職のため、この日で一年間にわたるアルバイトを終えることになっていた。店長は島中がやめていくことをとても残念がり、君を失うことは店にとって大変な損失だ、と繰り返し言っていた、というのは嘘で、今日もパチンコ店へ出張していた。

 店内は平和であった。落ち着いた、いつもと変わらぬ日常がそこにあった。その雰囲気は店の中に満ち満ちていて、知らずに入った客でさえ、心からくつろがずにはいられないような、そんな気安さがあたたかく店内にあふれていた。そうした雰囲気が、店長の卓越した才能によって巧妙に作り出されたものであることに、皆は気づいていなかった。

 島中は、今日が最後とガラス磨きに精を出していた。安家は、カウンターの整理整頓をしていたが、笛風船を見つけ、こんなのが出てきた、と長尾に手渡した。長尾は客がいないのをいいことに、笛風船を破裂寸前までふくらまし、店内に放った。風船は甲高い音をまきちらしながら、狭い店内を無茶苦茶に飛び回った。

 佐藤は、パンプスの型崩れを防ぐために入っている短いプラスチック棒を組み合わせ、強力なボーガンを作ろうと試行錯誤していた。彼は仕事ではまるで役に立たなかったが、このような工作をさせると右に出るものはいなかった。

 田山と早瀬は、靴にハタキをかけながら、いつ終わるともしれぬ、おそらく永遠に終わることのない世間話に華を咲かせていた。彼女らを観察するものがあれば、他愛ない話を続けるのにも才能が必要なのだ、という結論に達したに違いない。

 平和であった。ガラスを磨いていた島中は、立ち上がって伸びをし、店内を見回した。遊び回る佐藤と、それをたしなめる長尾。それを見て笑っている堀。黙然と立っている安家。おしゃべりを続ける田山と早瀬。
 見慣れた光景であった。それはずっと昔から見てきた光景であり、これからもずっと続いていくのだ。島中にはそう思われてならなかった。騒々しかったが、それでいて気に障るような喧噪ではなかった。毎日同じような仕事と同じような笑いがあったが、退屈させられることは決してなかった。

 島中の足は、無意識のうちに外へ向かった。春の陽光あふれる駐車場へ出ると、琵琶湖はエメラルド色に輝き、波もなく穏やかである。彼はしばらくそこにたたずんでいたが、大声で話されている自分の悪口が店の中から聞こえてきたので、苦笑しつつ店内へと戻っていった。

 誰もいない駐車場のアスファルトに、やわらかな春の日差しが静かに照りつけていた。


これは ryecroft Advent Calendar 2018 12日目の記事です。