第三夜 ビーチサンダル

 今年は梅雨入りが早い。それに、毎日毎日よく雨が降る(梅雨なのだから当たり前なのだが)。今日も朝から鬱陶しく、降ったり止んだりを繰り返している。空気は蒸し暑く、人をうんざりさせてしまうような、何か倦怠感のようなものに満ちていた。誰だってこんなじめじめした天気は願い下げだろう。島はレジを上げながら、そんなことをぼんやりと考えていた。閉店作業を終えたアルバイトたちはすでに帰ってしまい、島一人が残って、薄暗い店内でその日最後の作業をしている。有線放送を消した今では、店内はひっそりと静まりかえり、シャッターの外から聞こえてくる雨音と、レジに内蔵されたファンのたてる音が、その静寂をますます際立たせている。

 そのとき、人の気配を感じてふと、シャッターの半分下りた入り口に目をやると、一人の女が立っていた。年の頃30前後だろうか。沈んだ表情をしているので、実際にはもう少し若いのかもしれない。
 あの、すみません、と女は言った。力の入っていない、弱々しい声だった。生気というものがまるで感じられなかった。このサンダルをいただきたいんですが、よろしいでしょうか、と彼女は言って、サンダルを持った手を少し上げて、こちらを見た。島は内心、こんな時間になって、と嫌な思いをしたが、むろんそんなことは少しも顔に出さない。
「ええ、どうぞ、かまいませんよ!」
 反射的に笑顔を作りながら、無理に明るい声で言った。そうしないと、女の持っている、どこか尋常ならざる雰囲気に気圧されてしまいそうだったからだ。
 女はゆっくりとこちらへやってきた。そのときになってようやく、彼女が全身びしょ濡れになっていること、素足に何も履いていないことに島は気づいた。
 島は電卓で、そのサンダルの価格に消費税を掛け、彼女に示した。女は千円札を2枚、ハンドバッグから取り出した。その紙幣もぐっしょりと濡れていた。どういう理由で、傘もなく、雨の中を歩いていたのだろうか。そんなことをお客に尋ねる失礼をおかすわけにはいかない。釣り銭を渡した。このまま履いていきますので、とサンダルを手提げ袋に入れようとする島を見て女は言った。
「ありがとうございます。またご利用ください」
 そう言うと、女は、少し笑みを浮かべ、そっと軽く頭を下げると、サンダルを手に持ったまま、店の外へ出て行った。そのとき、島の心の中に、あの女は自殺するのだ、という思いがわきおこった。なぜだか分からない。それは、しかし確信に近いものだった。時計を見ると9時15分すぎだった。少し風が出てきたらしく、シャッターに雨粒が当ってパラパラと音をたてた。

 翌朝、島はいつもよりたんねんに朝刊に目を通した。どこにも女の自殺の記事は見あたらなかった。テレビのニュースは、政治家の汚職疑惑と、中東の戦争拡大を繰り返しているだけだった。昨夜のことだから朝のニュースに間に合わなかったのかもしれない、と彼は思った。

 あれから一ヶ月になる。彼の知るかぎり、女が自殺したというニュースはない。ずいぶん注意していたので、見落としということはまずあるまい。もしかすると、女は自殺しなかったのかもしれない。そもそも、自殺するというのは、彼の勝手な憶測にすぎないのだ。靴をなくして困っていた女が、たまたま彼の店に立ち寄っただけのことなのかもしれない。
 今夜のように雨の降る夜、ひとりで店に残っていると、いつもあの女のことが思い出される。薄暗い店内、ふと振り向くと、あの女がまた立っているかもしれない。島は顔を上げて、店の出入り口を見た。彼の目には、ただシャッターの半分しまった出入り口が黒く映っているだけである。

 外は雨が降りつづいている。


これは ryecroft Advent Calendar 2018 3日目の記事です。