第二夜 布カジュアル

 初夏の日差しが、誰もいない砂浜に照りつけている。琵琶湖は明るい緑色に輝き、心地よい薫風が木々の葉をざわめかせている。
 平和な日であった。店長は本社に出張していて留守であり、3人のパートと島中が店番をしていた。島中の大学は創立記念の行事のため休みであった。ちょうど客が途切れ、店に静けさが戻った。本当に静かだった。嵐の前の静けさだった。

 田山由美と早瀬佐久子は、しゃべりだしたら止まらないという点で、典型的な主婦パートであった。一度、話の種が尽きるまでにかかる時間はどのくらいかを皆で賭けたことがある。だが、昼休みをはさんで7時間たってもいっこうに饒舌は止まず、結局賭けは流れてしまった。
 掘育子は、パートの中ではいちばん若かった。もとK中学で番を張っていたという彼女は、アルバイトたちから姉のように慕われていた。影の総支配人として店に君臨している堀は、親しみをこめて「村長さん」と呼ばれていた。アルバイトたちから見ると年上であり、住んでいる所が山奥なこともあって、そのように呼ばれていたのである。

 午後になって、アルバイトの長尾大伸が、小太りの体にリュックを背負って出社してきた。すべての業務を確実にこなすことのできる彼は、この店にとって不可欠の重鎮であり、将来は靴屋のオーナーになるに違いないと皆から思われていた。明るい人柄と積極的な性格の長尾にとって、こうした接客業は天職といってもよいものであった。
 島中は、彼とは対照的に、接客業には向いていないようであった。とはいっても、店長代行の長尾に次ぐ地位についており、店長代行代理の称号を誇っていた。しかし地位と実力とは必ずしも比例しないものであり、島中の場合もそうであった。そつなくこなしているように見えつつどこか抜けている彼は、ときおり信じられないミスをしては皆を驚倒させていた。

 夕方になって客が増えてきた。その日は一筋縄ではいかない客ばかりであった。

 島中は、中年男性の客に頼まれて、紳士靴のコーナーを走り回っていた。いろいろ履いてみるのはよいのだが、それこそ手当たり次第に試し履きを要求する。その要求を満たすため、島中は乏しい商品知識を総動員して、なんとか気に入った品を見つけてもらおうと汗を流していた。
 客はたっぷり30分、島中を駆け回らせた後、結局なにも買わずに出て行ってしまった。あとには、通路に散乱した紳士靴と、呆然とたたずむ島中が残された。

 堀は、中年婦人への対応に苦慮していた。その客は、この店は値段が高いという。ほかの店では1,000円で売っていたのに、同じものが1,980円とはどういうことか。デザインが少し違う商品なのです、と言ってみたものの、本当にデザインが異なるのか定かではない。というか他の店がいくらだろうと関係ないだろうがこの○×△□◇が!!!、などとはおくびにも出さない。婦人は、この店は暴利をむさぼっている、とまで言い出した。目がつり上がって見事な三角形になっている。彼女はさらにいわれのない文句を堀に浴びせかけると、憤然として店を出て行った。あとには、布カジュアルを片手にため息をつく堀が残された。

 田山は、一人の若い男が、やたら自分を見ていることに気づいた。私の美しさに目をとめるなんて趣味の良い人だ、などと一瞬思ってみたが、よくよく注意すると、彼は人目のつきにくいところばかりに移動し、キョロキョロと周囲に目を配っている。万引きをする気かもしれない、と思った田山は、その男の監視に1時間を費やされた。けっきょく男は500円のズック靴だけを買って出て行った。あとには、神経をとがらせすぎて疲れ切った田山が残された。

 早瀬は、強面の初老男性の対応に四苦八苦していた。その男に尋ねられたサイズを探したのだが、ぴったりのものは見つからなかった。ただいま在庫切れで、と言うと、男は舌打ちして、少し大きめのサイズで我慢するから半額にしろ、と要求してきた。当然そんなことを許したら後々どうなるかは目に見えている。冷や汗を流しながら必死で説得し、ようやく彼を店から出て行かせることに成功した。あとには、ぐったりとした早瀬が残された。

 長尾は、小さい子どもの相手をさせられていた。子どもは次々と履いてみたい靴を指差し、ちょっと履いては次の目標に向かって駆け出していった。長尾は後片付けに必死だった。おとなしくさせようとキャンディを与えると、子どもはもっと要求した。彼は子どもに「おっちゃんおっちゃん」と呼ばれ、そのたびに
「おっちゃんやない、お兄ちゃんや」
と自分で訂正しなければならなかった。彼はその年、大学に入ったばかりだったのだが。
 やがて婦人靴を見終わった母親が、子どもを連れて出て行った。子を見れば親がわかるというが、その母親のいた婦人靴コーナーは、竜巻の直撃を受けたような惨状だった。ほとんど意地悪でやっているとしか思えないくらい、商品の陳列は乱されていた。修復にはたっぷり1時間を要することは明らかだった。あとには、石化の魔法をかけられたように硬直した長尾が残された。
 
 太陽が西の山に沈み、夕闇があたりをおおいはじめた。国道には帰宅を急ぐ人たちの車が長い列を作っている。いつもと変わらぬ、薄暮の風景である。

 平和な一日であった。


これは ryecroft Advent Calendar 2018 2日目の記事です。